じゃんがら念仏踊りに想う
平支部
にむら甲状腺と消化器クリニック 院長 二村浩史
私は2010年1月からいわき市で働くようになり、その年の夏にはじめてじゃんがら念仏踊りを観て非常に感激したことを覚えています。その頃どっぷりとサンバにはまっていて、私自身スルドという大太鼓をたたいていたので、打楽器のリズムにはとても興味がありました。じゃんがら念仏踊りを観て、純粋にかっこいいなと思いました。テンポが速くなった時、「ヤッサヤレヤレヤレー」という掛け声が聴こえてきて、あれ?どっかで聴いたことがあるな…ん?ああ、小倉祇園太鼓だ!と気づいたのです。
私は中学高校の多感な時期を福岡県北九州市の小倉で過ごしました。小倉のお祭りと言えば、無法松の一生で知られる小倉祇園太鼓です。その掛け声がじゃんがら念仏踊りと同じ「ヤッサヤレヤレヤレー」なのです。いわきのようにバチで叩く鉦ではなく、大きな摺り鉦ですが、やはりジャンガラと呼ばれていました。太鼓もいわきと同じで両面をたたきます。ただ、大きな太鼓なので左右一人ずつです。乱れうちといって、カッコをつけて踊りながら太鼓をたたきます。
小倉祇園太鼓は400年ほど前江戸時代に京都の祇園祭を模倣してできたと言われています。京都のこの時代の祭りは、浄土宗の流れの時宗の一遍上人の踊念仏から始まったとされていて、歌舞伎もそこから生まれたと言われています。江戸時代に、カッコつけた男たちを歌舞伎者と言っていたようですが、小倉祇園太鼓の乱れうちのカッコのつけ方もこの歌舞伎者にきっと由来するんだろうなと思います。じゃんがら念仏踊りも同じく400年ほど前に袋中上人が始めたと言われているようですが、やはり踊念仏と関係しているんじゃないでしょうか。
寺の檀家制度は、徳川家康が本願寺をはじめ僧侶の武装化やその勢力を抑えるために民衆に大人気であった踊念仏を途絶えさせることを目的にとった制度だと言われています。その結果、決まった場所に寺を持たない時宗はすたれていき、踊念仏も全国的に広がることはなく各地方で独自に発展したものと思われます。そう考えると、いわきでは独特のじゃんがら念仏踊りがうまれたんだろうと想像できます。
そのじゃんがら念仏踊りを始めた袋中上人が中国に渡るのを失敗して琉球、今の沖縄に流れ着いた結果、じゃんがら念仏踊りが沖縄でエイサーに進化していったようです。じゃんがら念仏踊りは、お盆に亡くなられた方の霊を祭るためどこか暗いイメージがありますが、沖縄のエイサーは「ハイヤ、イヤサーサー」と掛け声からして勇ましく、とても明るいものです。大好きな沖縄民謡歌手の嘉手苅林昌さんの歌に「時代の流れ」という歌があります。その歌詞にも歌われていますが、琉球王国は中国、日本、アメリカとなっていった複雑な歴史があります。戦争や戦後の日本に振り回され続けているやるせなさ、それでもなんくるないさと柔軟に生きていく力強さを沖縄に感じます。沖縄はおじいおばあをとっても大切にして敬い、おじいおばあはみんな元気に働いて泡盛を飲み、歌い踊りと、人としての本来の姿が残っているなと感じます。都会の様にあっというまのはやりすたれもなく、愛されるものは末永く愛され続けます。護得久栄昇先生というお笑い芸人の仮の姿で上から目線の超面白いキャラクターがいます。数年前に沖縄で大ブレイクしましたが、いまだに大人気です。私もTシャツを持っているくらい大好きです。(写真はそのTシャツを着た私です。)彼の「愛さ栄昇節」という笑える曲が、「ベストヒット!沖縄ソングス」というCDにはいっています。この「愛さ栄昇節」、最高ですので是非ユーチューブでご覧ください。
私は奄美大島が大好きで、本当はそこの無医村で医師をしたかったのですが、奄美大島の島唄も沖縄民謡に負けないくらい大好きです。六調というカチャーシーと似たリズムで歌い踊るものもありますが、沖縄民謡とは三線の弾き方も歌い方も全く違います。文化圏は徳之島・沖永良部島を境に北と南にわかれると言われています。沖永良部島より北は奄美三線でバチは細い竹、沖永良部島より南は沖縄三線でバチは牛の角からできたものです。石垣島、宮古島など八重山諸島ではバチは巻貝を使っています。奄美大島は、薩摩藩と琉球王国に虐げられた悲しい歴史があり、歌も暗いものが多いです。男も女もファルセットで歌うので裏声がとても美しく、本土でも有名になった中孝介さんや元ちとせさんの歌を聴くとよくわかります。
初めて奄美大島をおとずれた時にふらっと立ち寄った名瀬の民謡酒場「かずみ」のカウンターの端っこで丸坊主頭のかわいらしい少年が恥じらいながら三線を弾いていました。のちに有名になった中孝介さんです。店主のかずみさんに、この子はきっと将来とても有名になりますよ、だからCDを買ってあげてくださいと言われて、当時飲み屋さんでしか売っていなかったCDを買いました。少年らしいたどたどしい字でサインを書いてくれました。いまではそのCDはCDショップで売っていますが、懐かしい思い出です。以前東京の九段会館で奄美の歌の集まりがあり、大勢の歌者の末席に美しい歌の上手な子がいました。ビデオテープが後で送られてきて、この子の名前なんて読むんだろうと思って観ていました。デビュー数年前の元ちとせさんでした。あんなに本土でブレイクするとは思っていませんでしたが、とにかく歌がうまかったです。
奄美大島は山が高く、原生林で覆われていて、遠い集落との行き来は命がけだったようです。恋しい人に会いに崖を登ってあやまって海に落ちて死んでしまった美少女の歌など多く有ります。それくらい各集落での行き来が困難だったため、それぞれの集落で歌の歌い方も違っています。各集落をシマというので、奄美でしまうたと言うと、島の歌ではなくて各集落の歌と言う意味です。とくに北の笠利(かさん)と南の加計呂麻島に近い瀬戸内では同じ曲が全く違った風に歌われます。笠利のしまうた(かさんうた)はゆったりした歌い口、瀬戸内のしまうた(ひぎゃうた)ははげしく情緒あふれる歌い口です。元ちとせさんや中孝介さんはひぎゃうたです。かさんうたでは当原ミツヨさんが有名ですが、彼女の歌う十八番の野茶坊節は最高です。若い頃の大島紬がよく似合う美しい動画がユーチューブでみれますよ。
いま、慈恵医大のラグビー部の後輩が、家族で奄美大島の大和村(やまとそん)という、夕日のとっても美しい海沿いの村に住んでいて、大和村唯一の医者として活躍しています。大和村に入る前は、名瀬の鹿児島県立大島病院の外科で、消化器、心臓・血管、呼吸器、なんでもござれで手術をしていました。もともと外科医ですが、産婦人科も、眼科も、すべて診れる理想的な離島の医者です。まだ40代で若いので、大和村民は幸せだなと思います。彼は慈恵医大に入学する前は私と同じ福岡県出身で、修猷館高校のラグビー部でした。彼を見ていても感じるのですが、私は2021年4月に開院してから、ますます目の前にいる患者を責任持ってみることに喜びを感じています。
医学生の頃、人口が増えると自然破壊を起こしてしまうので、地球にしてみれば医者の存在はよくないんじゃないかなどと考えた時期がありました。でも自分も人間であり、愛する人をなくせば悲しいです。阪神大震災での長期ボランティアの経験や映画のシンドラーのリストを観た時も感じましたが、目の前にいる人にしか責任を持つことができないし、それでいいんだと考える様になりました。いわきは甲状腺に関しては無医村に近いと思ったのでいわきで開院しましたが、自分の生きざまとして「一期一会」の気持ちで、これからも護得久栄昇先生のようにえらそうに上から目線ではなく(笑)、謙虚に自分の人懐っこさそのままにやれるところまでやっていきたいと思っています。
じゃんがら念仏踊りからいろんなことを連想して好き放題書かせていただきました。これからもどうぞよろしくお願いいたします。